戦後の復興
1941年に太平洋戦争が始まり、軍隊が使う車両を作ることが優先されたことで、乗用車の開発は止まっていました。その後、1945年に戦争が終わりましたが、日本は戦後、ゼロどころかマイナスからのスタートとなりました。戦争によって、生産設備は使い物にならないくらいにこわれてしまったのです。また、当時はアメリカを中心とした軍が日本に送りこまれ、日本はその軍に管理されていました。そしてその軍によって、日本では乗用車の生産を禁止されたのです。そのため、戦争によって焼けてしまった日本を走るのは、米軍の車と大型のアメリカ車ばかりでした。
1949年には自由に自動車を生産できるようになり、ようやく日本での自動車生産が始まりました。多くの自動車メーカーは、フランスやイギリスと協力して、海外の最新の技術を学んでいきました。その中でも、トヨタ自動車は他とはちがい、すべてを国内で作った乗用車の開発を進めました。そして、1955年にはすべてを国内で作った乗用車ができましたが、ヨーロッパやアメリカとの差はまだまだ大きいものでした。
高度経済成長期
その中で日本が独自に発展したのは、軽自動車でした。軽自動車とは、だれもが安く買うことができるように、エンジンや車の大きさを小さくした車の種類です。エンジンや車の大きさが小さい分、はらわないといけない税金も普通自動車より安く設定されています。黄色のナンバープレートの車が走っているのをよく見ると思いますが、それが軽自動車です。1949年に軽自動車の基準が決められ、1954年に基準が変えられると、大メーカーが次々に軽自動車を作り始めました。
1950年代半ばから、日本は高度経済成長期に入り、1955年には、国が国民に対して自家用乗用車をもつようにすすめました。それによって、各メーカーが競争しながら開発を進めていき、自動車が急速に広まっていきました。
1960年代に入ると、日本は東京オリンピックや大阪万博が行われたこともあって、経済的にさらに発展しました。それを受け、1963年には日本初の高速道路が開通しました。
その中で、人々はさらにごうかで大きな自動車を求めるようになりました。このころ、まさに日本の国民車となった初代カローラが1966年に発売しました。カローラは1968年~2001年の33年もの間、日本で一番売れた自動車となり、現在でも世界中で売られています。
自動車が引き起こす問題
しかし、自動車をもつ人がだんだんと増えたことによって、交通事故で亡くなる人も増えてしまいました。1970年には最も多くなり、1年間に交通事故で亡くなった人が1万6765人もいました。また、多くの人が道路を走行することで、車の流れが悪くなり、交通じゅうたいが発生するようにもなりました。
さらに、自動車の排出ガスによる大気汚染が大きな社会問題となりました。1968年には大気汚染防止法が成立し、大気汚染物質についての基準が定められました。1970年には、アメリカでさらに厳しい基準を定めたマスキー法が制定されました。マスキー法は、基準が厳しすぎて達成できないと反発され、その後廃止されましたが、各自動車メーカーは排出ガス対策をすることが必要となりました。
オイルショック
1973年には中東地域の戦争が原因で、石油の輸入量を制限されたり、石油の値段が上がったりして、オイルショックという混乱が起こりました。それによってガソリンの値段がとても高くなり、少ないガソリンで長く走れる自動車が求められました。ここで世界的に優れた技術を示したのが、日本の車です。ホンダは1972年に、当時達成できないとまで言われていたマスキー法をクリアしたエンジンを発表して、世界をおどろかせました。さらに、大型になったアメリカ車とちがい、より少ないガソリンで長く走る日本の小型車は、アメリカでたくさん売れるようになりました。
日本の自動車工業の光と影
その後も日本車は、アメリカで大きく売り上げをのばし、1980年には、日本の自動車生産台数が世界一となりました。日本からすればいいことのように思いますが、アメリカでは安くて性能がいい日本車がたくさん売れ、アメリカ車が売れなくなったということです。アメリカ車の工場では、仕事がなくなり働けなくなった人が増えてしまいました。そうしてアメリカで仕事をなくした人たちが、日本車をハンマーでたたきこわしたり、火をつけたりする姿も見られました。
一方で日本車の勢いは止まりませんでした。1980年代後半から、土地などの値段があわのようにふくれあがるバブル経済が始まりました。値段が高くなると買えなくなるのではないかと思うかもしれませんが、お給料も高くなっていたので、みんながお金をたくさん使い、経済をまわしていたのです。1988年には、日産自動車がシーマという車を発表し、値段の高い高級な車がたくさん売れていました。
バブル崩壊とその後の長い不況
景気もよく、たくさん売れていた日本車でしたが、思わぬかべにぶち当たりました。それは、バブル経済の崩壊です。バブル経済であわのようにふくれあがった土地などの値段は、1989年には大きく下がってしまいました。1991年の新車は7年ぶりに前年より売れず、景気の悪い状態が長く続くことになりました。バブル経済が崩壊して景気が悪くなってから、バブル期に考えられていた新型車が発売されても、あまり売れませんでした。
また、このころから、自動車を使う人がいろいろなことを自動車に求めるようになりました。これまでは国内販売のほとんどが、エンジンルーム、座席のある車室、荷物を積むトランクルームに分かれていて4つのドアがあるセダンタイプの自動車でした。しかし、車両が小さく安い軽自動車や、シートが3列あり大人数で乗れるミニバンが中心に売れるようになっていきました。
自動車工業が大きく変化していったのは、日本だけではありませんでした。国をこえて世界的に経済が発展していったことによって、規模を大きくすることが重要になり、自動車メーカーは国をこえて再構成されていきました。
ゼロカーボンの国際的な流れ
長い不況と自動車業界の大きな変化を経験しましたが、1990年代後半からも大きな動きがありました。1997年に、トヨタが初の量産ハイブリッド車であるプリウスを発売し、2000年には日産がティーノハイブリッドを発売して、環境技術が進んでいることを世界に示しました。また、1997年に京都市で国際的な会議が開かれ、先進国の温室効果ガス排出量を減らすための具体的な目標が立てられました。今までも地球温暖化についての会議は開かれていましたが、この年に初めて目標を達成することが義務づけられました。日本も、2012年までに温室効果ガスの排出量を1990年と比べて6%減らすという目標を達成するように決められました。
しかし、1997年に行われた会議では、発展途上国は目標を立てなくてもいいとされていました。そのため、温室効果ガスの排出量をどんどん増やしていた中国などは制約がなく、アメリカから大きな批判を受けました。これを受けて、2015年にパリで行われた会議では、先進国だけでなく、発展途上国をふくむ全ての参加国に目標が設定されました。世界共通の長期目標として、産業革命前からの気温上昇を1.5℃におさえるというものです。そして、その目標とは別に、それぞれの国が5年ごとに目標を作るよう決められました。
2017年にもパリで会議が行われましたが、そこでは一部の地域を対象としたカーボンニュートラル宣言が出されました。この宣言では、2050年までに国の温室効果ガスの排出量を全体としてゼロにすることがルールとされています。全体としてゼロにするというのは、排出される二酸化炭素の量と、森林などが吸収する二酸化炭素の量を同じにするということです。
このような国際的な流れを受けて、2020年に日本でも「2050年までに温室効果ガスの排出量を全体としてゼロにする」というカーボンニュートラルを実現すると宣言されました。しかし、今の日本にとっては、その目標を達成するのはとても大変なことなのです。今の日本では、電気の多くが化石燃料を使った火力発電でつくられています。実は、化石燃料を土からほり出すときにも、火力発電で化石燃料を燃やすときにも、たくさんの二酸化炭素が排出されています。これまでの歴史の中では、軽自動車を生み出したり、いち早くハイブリッド車を発売したりと、日本は世界を引っ張っていました。しかし、これからも世界を引っ張っていけるかどうかはわかりません。